昭和50年09月15日 朝の御理解



 御理解 第22節
 「天地金乃神と云えば、天地一目に見ているぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を充分に受けようと思えば、ままよと云う心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」

 大変見易く大変難しい御理解であります。これはおかげを受けると言う事と、お徳を受けると言う事を説いてある御教えだと思いますね。おかげを受けると言う事、それからお徳を受けると言う事。神様は平等におかげを授けて下さってある。それは丁度降る雨の様なもの。平等におかげは下さってある。受け物が悪ければおかげが漏るぞと云うてある。 昨夜は日田の共励会でしたが、もう帰って参りましたのが一時頃だったでしょうか。文男先生がやって来て足を揉んで呉れました。
 足を揉んで貰い乍ら信心話でした。今朝二時半まで話をしておりました。中で本当にようおかげを受ける。もう本当に金儲けは非常に名人である。所が、金が残らない人の話をしておりました。だから私がいくらおかげを頂いても頂いてもです、それを漏らして仕舞うならば大した事はないと思うですね。商売が上手金儲けがうまい。それでもです、締めくくってみるとやっぱり赤字だ。そんな筈はないにも拘らずそうだとこう言う。そこでです、どこから漏れておるかと言う事を気付かせて頂く。
 何処から漏れているかを知ると言う事。昔の御理解によく頂いたですね。お米を買いに行った確かに一斗買うて帰って来たら、帰って来た時には五升しか入っていなかった。向こうの米屋が間違えているのじゃろうと言う考え方をする人が有ます。親先生おかげを遣切りなさらんとじゃろうと行ったような人があります。もちっと云うなら金光大神はおかげをやりきんなさらんとじゃろうかと言う様な、金光様じゃおかげを受けられんと言う様な人が有ます。
 とんでもない話だと思いますね。どうでしょうか。おかげを下さってあるんだけれども漏らして仕舞う。そこでですお米を買いに行った。確かにお金を払って一斗のお米を買うて来た。帰って見た所が5升しか無い。向こうの米屋が間違うとるじゃろうと思わずにです、先ず自分が持って行った袋を調べて見よと言う事です。あるあるもうここにこんな大きなほころびがあったもんだから、道々落として来とる。私は今日は容易くおかげを頂くと言う事は、そういう意味で聞いて頂きたいと思うです。
 お取次を頂くお願いをするおかげを頂く。おかげを確かに頂いた。これだけのおかげを受けた筈だけれども、締めくくったら残ってはいなかった。神様がおかげ頂かせきんなさらんのじゃない。言うなら自分が持って行っておった袋があそこもここも破れておったと言う事。ですから私は信心でおかげを頂くと言う事はね、自分の言うなら自分の心の破れと言う事をです。知る事だ気付かせて頂く事だ。そしてそれをふせ繕うて行く事だと言うふうに思います。だから容易いでしょうが。
 所が果してお互いが何十年間こうやって皆さん信心しておられますよ、容易い事だけれども、あの皆さんが袋の修繕していないと言う事。云うならば改まっていないと言う事。五年前も十年前も今日も差程に自分の代わり映えがあってないと言う事。成程信心は高度なお話を日々頂いてますから、確かに巧者になりますです。今日は私は御神前で御祈念さして頂いとりましたらね。容易うおかげの受けられる話をせよと今日は頂いたんです。私がね花の台がずうっと高くなっている上に私が立ってお話をしているのです。
 もう所が頭の上に雲が掛っているのです。神様の表現ちゃですね、富士山が雲がかっている時には分からない様なものです。あんまり高度の高い話をするからね。皆んながとちめん棒振って分からんでおるのではないか。それはお話はね、私の話は噛んで含める様に誰でも分かる様にお話をするんですが、その含まれている内容と言うのが非常に難しいのです。もう最近の御理解はしみじみそれを思いよったんです。皆が例えば分かった顔をしとるけれども、実際の面に於いては分かっていないと言う事です。
 だから今日は程度を低う下げてから、おかげを頂くと言う話。それはどう言う事かと言うとお参りをする、御理解を頂いて成程自分自身の心が惟ではおかげの受けられない筈だ、いや受けても必ずそこから漏りよるんだと分からせて頂いた事を、伏せたり修繕したりしていないと言う事。どうでしょうか自分は惟ではおかげ頂ききらんと思うて、此処をこう改めた、ここに自分の心に、こういう破れがあるのに気付かせて頂いて、ここをこう云う風に伏せをしたと。
 容易い事なんだけれども、それを疎かにして、願えばおかげ頂くもんですから、そしておかげを頂いては漏らし、頂いては漏らししておる様な、私は事ではなかろうかと思います。神様は平等におかげ下さってある、けれども受け漏らしておると云う訳です。神の徳を充分に受けようと思えば、ままよと云う心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞと、此処になって來ると信心は大変難しい。此処はもうおかげの世界じゃないです。御神徳の世界です。
 だから御神徳の世界が尊いのであり、教祖の神様の殆どが御神徳を受けて呉れよ、そうでないと人間の本当の幸、幸福は有り得ないんだと。どんなにおかげを頂き貯めてもです。それで必ず人間幸せではないんだと、それには御神徳を受けて、頂くおかげでなからねばならんと言う殆どがそう言う御教えばかりであります。けれどもね私は先ずは、おかげの受けられる受け物を作って、言うならば、破れておる心を修繕して、そしておかげを受けて、そして私は御神徳の世界だと思うですね。
 それを昔は親先生任せと、今も申しますけど。もう昔からとにかく言葉は容易すい事ですけど仲々難しいのです。言うなら本当に素直になれないと言う事です。それは容易い事なら、親先生任せになれますけど、それが命に係る様な事であったり、ひょっとしたら、財産を打ち振って仕舞わなければならない様な事であったり、すると仲々任せられないものなんです。そういう私は心がままよと言う心だと思うです。
 先生が言う通りにして損をしたと言うて、先生を責める様な心では、それは死んでもままよと言う事ではないと思うです。親先生が言う通りにして損をした。親先生が言う通りして返って結果が悪うなったと云う様では、任せた事はなっていないのです。ですから、任せると言う事は、例えば任せて、左右はもう親先生に任せると言う時に、初めて親先生任せになると言う事。
 それが例えば生き死ぬると言う、大変な事であっても任せる。そして出て来た答えに対して御礼を雲えれる様な心こそままよと言う心なんです。死んでも儘よと云う事です。死んでも儘よと。ここは合楽の方達は段々稽古をさせて頂いております。それも徹底して出来ておるとは言えませんけど、随分稽古をしておりますけど、先ずおかげの受け物を作るというか、破れを伏せるとか、伏せを当てると言う事が出来ていないから、それもこれも一緒に漏れておる様な感じがする。
 皆さんおかげを受けると言う事はです、只お願いをしてお取次を頂いておかげを頂いたと、是はもっと容易いけど、それは願う氏子におかげを授けと仰る神様が、神様の方が氏子信心になって呉れよ、神を信ずる心を作って呉れよと云われる、もう一番初めの手付けの様なもの、神様の方から手付けを下さる様なもの。だからそういうおかげと云うものは、なら何時も現れるものではない。
 奇跡と行ったようなものはいつも現れるものではない。ですからその次の信心は、云うなら信心をしておかげを頂くと言う事です。信心をしてと言う事は、先ず自分自身の心に焦点を置いて、成程こういう心が、心が破れておるのであろうかと気付かせて頂いたら、その破れた箇所を修繕して行くと言う事。そして一斗の米を買うたなら一斗の米を持って帰れれる、初めて神様も満足私共も満足と、言うおかげが受けられる訳であります。そげな筈はないと言う様なおかげの状態であるならばです。
 本気で一つ心の破れを先ず繕う事、修繕する事を思うてみなければいけません。そして段々、言うならば充分の徳を受け様と思えばと言う様な信心になって行かなければならない。充分の徳を受けると言う事になりますとです、惟はそれこそ確かにおかげは頂きよりますけれども、締めくくって見たらおかげになっていなかったと言う様にです、お徳を受けますとです、こげんおかげ頂いとると思われないのに、もうそれこそ夢にも思わなかった様なおかげが受けれて来る様になります。
 是は御神徳の世界です。段々おかげを頂いていかねばなりませんがです。今日は私はそこん所を、受け物が悪ければおかげが漏るぞと。確かにおかげは頂いて来ておるけれども、おかげが漏っておる、そのおかげが漏っておる事は事実なんだから、結局おかげの受け物、云うならば心の破れを修繕しようともしていない、改めようともしていない。改まろうとも思うていない。もうこれで良い様に思うておる。これではね何時まで経ってもおかげはそこから漏れて行くと言う事になります。
   どうぞ。